ワタクシが常々お世話になっている方々にライフスタイルやインテリアについてお話して頂きました。 ゲストインタビューへ
くうかんてきせけんばなし
空間ゲストインタビュー

Kaoちむ
セックスを楽しむ家 第二章

引き続きKaoちむによる「セックスを楽しむ家」考察です。
「前章で日本人はアオカン趣味であることが分かりましたが・・・」
と書けといわれたのだが、ヨーロッパではより広く受け入れられているようでございます。人類の歴史からするとアオカンがメジャー視されなくなってからの方が日は浅いのかもしれません・・・が、目に入るものはえり好みしたい自由も大有り。そこんとこヨロシクなのでございます。


子宮回帰  しかし、そもそも家にアオカン的要素は必要だろうか。アオカンがしたければ健康的に山に登るという手もあるがどうか。しかし、あまりセキララにその欲望を伝えると、私のように夫に白い目を向けられて悲ちい思いをしたりするから気をつけて。・・・話がそれている、てへ。家に緊張感が必要なのか。明るいだけが人生か。高い天井の下で開放感タップリに行うエッチは果たしてそんなにキモチいいのか(そうなの?ねえ、そうなの?おちえてブリブリ←身もだえ)。
 そういえば、最近はなんでも「軽い」ことが評価される。日本人らしい豊かな黒髪は「重い」の一言でシャギーを入れられ、茶色に、時には七色にも染められるスゲー。太っていることはそれだけで悪らしく、誰もが「もっともっと」と痩せたがる。タイトルに「シンプルライフ」と書けば購読者が倍増する。人生について熱く語れば「暑苦しい」と罵られるし、「努力と根性、立つんだジョー」的世界は、もうとっくの昔に終焉を迎えた。秀才より天才肌、なんでもかんでも軽やかにサクサクいくことがカッコいいのだという。かといって、家も尻も軽い方がいいのか。
 私に言わせれば、家はどっしりと家族を守るためのものだ。「動物園の動物たちがカワイソウだ、自然に帰せ」とうそぶく動物愛護団体の声は清らかだが、ある実験でチンパンジーを檻から出してやったところ、なるほどチンパンジーは嬉しそうにあちこち駆け回って遊んだけれども、何かビックリするようなことが起こると一目散に元いた檻の中に逃げ帰り、ご丁寧に自分で鍵までかける例が報告されている。彼らにとって檻は、「安全」を保障するものでもあったのだ。チンパンジーに教えられるまでもなく、私たち人間の家も、本来はそういう存在でなくてはならないと思う。

 あまり好きな言葉ではないが、「子宮回帰」という考え方もある。よく用いられる例としては、多くの拒食症患者の痩せ願望が、実はもっと小さくなりたい、子供に戻りたい、究極的には母親の子宮に戻りたいという願望の表れだというものがあるが、何も摂食障害者に限らず、このような願望は実は誰にでもあるものと言われている。たとえば子供は押入れのような、わざわざ暗くて狭いところにハムスターよろしくこもるのが好きだし、大人だって、実はパンパカパーンと明るいだけのサワヤカ〜なオープンカフェより、照明をグっと落とした穴グラ的、隠れ家的な薄暗い造りの店の方が、実はリラックスモードに突入しやすいことを知っておいて損はない。
 かつて母親の子宮のなかで、私たちは外野の騒ぎなどどこ吹く風で、すやすやと安心して眠っていられた。「守られていた」その記憶が今も頭の片隅に心地よく残っているのだとしたら、子宮の代わりである「家」は、特にそれがくつろぐための空間であればあるほど、暗く狭くてもいいのだと、いや暗くて狭いほうがいいのだとさえ私は思う。壁やドアノブなど直接手に触れる部分を優しくぬくもりのある素材や色にするのもいいし、天井は迫ってこない程度に低くするのもいい。いつ来るか分からない客の目を意識した空々しい雑貨をズラズラ並べているヒマがあったら、たとえ「捨○る!技術」に「捨てろ」と言われても、何事にも「必要なムダ」があることを思い出だして、学生時代の苦楽を共にしたアヤしい手垢付きのエロ本などを、寝室の本棚の片隅にこっそり並べていつでも手に取れるようにしておく方がいい(できれば少し分けてほしい)。もちろん、家に帰ってまで緊張していたい人は、「昨夜のキミはステキだったよ」という昔の男からのラブレターなんかをてんぷら紙として食卓にのぼらせるのもいい(うへーキンチョー)。
リカちゃんに子宮を! 自分の家を建てる甲斐性もなく、今となってはその気すらなくなったこの私だが、新居選定にあたってつくづく思い知らされたのは、セックスのできない家が多いということだった。「胃袋がウマいもので満たされなければ幸せにはなれない」と信じているワリに恐ろしく面倒クサがりな私は、当然のように「家にいる誰もが知らず知らずフライパンを握ってしまうキッチン」と、「健全な性と睡眠を謳歌することのできる部屋」を求めたが、不動産屋に「どうですか」と訊かれるたび、夫に「この部屋はエッチできないからイヤ」「この風呂は二人で入れないからイヤ」と耳打ちを繰り返さねばならなかった。
 私の例に限らず、「こんな明るいところじゃいやん見ないデ」「窓ばっかりでさぶー」「声が漏れちゃう」「なーんか落ち着かなぁーい」という透けや空けによる抑制もあれば、意外なところでは寝室から風呂までの動線に無理があって、「後処理(←ぷぷ)が面倒だから今日はヤメ」と密やかに欲望を鎮めざるを得ない間取りも多いのではないかと思う。コトが終わったとたん、股グラにティッシュを挟んだまま子供部屋の前を「垂れる、垂れるぅ」とガニ股で横切ることが、そう楽しいことであるようには私には思えない。
 もっとも、戦前の日本のように親子供が川の字になって寝ていてもいつの間にか兄弟が増えていた不思議な時代もあったことを考えると、人間その気になればいつでもどこでもヤっちゃえるものだとは思う。とはいえ、夜のお楽しみがいわゆるセックスばかりではなくなった今、上記のようなマイホームが夫婦間セックスレスを助長していると危惧するのは私の早計か。
 そもそもこの国では、セックスについて語ることすらタブーとされている。
少し前も、私が好んで出入りしていたある主婦の方の日記サイトが、「青少年に有害」を理由に突然、閉鎖の憂き目をみた。その方は、非常に大らかに旦那さまとのセックスを楽しまれていて、いたって健全な夫婦愛を、「ち○こ」とか「フェ○」とかいう専門用語を用いて面白おかしく語っておられた(ちなみに閉鎖当時の日記タイトルは、「ちん○お姉さんフ○ラを語る」だったと記憶している)。「イヤらしい」とか「破廉恥(←死語)な」とかいう形容とはおよそ無縁の、ほほえましい限りの日記だった(いやマジで)。生殖について学ぶ年齢の青少年にも是非読ませたい、スガスガしいほどの「これぞ夫婦愛」なセックスっぷりだった。それがなぜ閉鎖されねばならなかったのか。セックスは悪なのか。相変わらずベイビーはコウノトリが運んでくるのか。薄ら寒さに凍え死にそうだ。
 また、かつて「デリケートな部分のカユミが治せるんです」というフェ○ニーナ軟膏の衝撃的なCMを初めて目にした時も、私は同様の薄ら寒さを感じた。「ドコドコどこだよデリケートな部分って。チクビなの?それとも、それとも・・んもーっハッキリしてよーぅ」と本気で怒りを覚えた人も多いと思うが、現代日本の家は総じてフェミ○ーナ軟膏化していると言っても過言ではなく、そのトボけっぷりは、リカちゃん人形のパンツの中なみと言わざるを得ない。あまりにも嘘っぽい。あれではリカちゃんはいつまでたっても処女のままだ。(でも、なぜかリカちゃんは妊娠していて、幸せイッパイの育児日記までつけていたりする。処女受胎カッ)
 本当に「青少年に有害」なのは、このように、そこに当然あるはずのものを涼しい顔をして「なかったこと」にしてしまうその嘘っぽさであり、その嘘をそのまま「カタチ」にしてしまう建築なのだと、今ここで、私は声を大にして言いたい。
 健全な肉体に健全な精神が宿るがごとく、よい家にはよい性というものがある。逆に言えば、どんなに贅を尽くした家であっても、そこに心地よい性が存在しなければよい家とは言い難い。私はこれからも夫とのセックスを当たり前に楽しんでいきたいし、そのために男女の性といつも正面から向き合っていたい。また、それが許されるよい家が増えればいいなあと、心から願ってやまない。最後に、「性」とは何も性器の挿入に限定しないことを明記するとともに、さしあたってワガヤの寝室にはシャワーが必要であることを付け加えておく。でないと翌朝カピカピ。 

最近は小学校の低学年から行う性教育に「やりすぎ」との声もあります。ワタクシが見た限りでは息子達が赤ちゃんの時の話しや、生まれたときの話を嬉々として興味深く聞いていたのと同様な印象をうけました。
性には(出産に限らず)生がつきもの。ただ生きていることで愛し愛されてハッピーっという単純な世の中だったらいいなと思います。しみじみ

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